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近代を耕した明治の起業家・雨宮敬次郎

, 三輪 正弘

によって 三輪 正弘
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内容(「MARC」データベースより) 軽井沢に700万本という落葉松を私財を投じて植林した雨宮敬次郎。明治の官尊民卑の只中で「民」に身を置いて生きた雨宮の雄大な「志」や「人間味」を「過去六十年事蹟」から抽出し、読みやすく手を加えてまとめる。 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 三輪/正弘 1949東京工業大学建築学科卒、「新建築」誌編集長。1954RIA建築綜合研究所創立参加。1970三輪環境設立現在に至る。1971東京造形大学教授。1977武蔵野美術大学教授。1995名誉教授となる。主な業績―建築:軽井沢町立図書館・軽井沢歴史民族資料館・軽井沢オリンピック記念館・出光興産軽井沢迎賓館「千寿荘」、別荘住宅多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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軽井沢の離山下の市村記念館でこの名前を見て気になっていました。本人の自伝の中のいくつかの話を現代語に直したもの。リーズナブルで豪快な生き方が読んでいて爽快でした。小生の印象に残った点は以下です。・数え14歳の時に父から1両を貰い、これを元手に商売を一人で商売を始めた。鶏卵から生糸・蚕卵紙等の売買へ。金持ちになるのではなく、死後も尊敬される「天神様」になりたかった。・情報を活かして、大儲けしたり、売れずにほぼゼロに戻ったり。隣の売込問屋の亭主が死んで倒産しかかっていたのを助けて夫婦に。(市村信子)・欧州の養蚕が不作との情報を得て、繭買いで一財産つくり、1876年に米国・英国を経てイタリアに。洋服を着て帰国してみると横浜の時計台の小さいこと...。・横浜の欧米人と、初めて華僑を通さず交渉し、安く石油を卸せる代理店として、大儲け。蚕卵紙の貿易について、日本で初めて欧米人と対等取り引きした。・相場をわかっていない役人を見て「大蔵省の役人は馬鹿だ」と言ったら、五代友厚の参謀として日本紙幣の暴落を防ぐことになった。・洋行時に見てやってみたかった小麦粉製造を小名木川で開始。水を使わず挽くことで長持ちし、ロシアで好評。軍をパン食・ビスケット食にした。・相場で大損し、確実な公債に投資。大儲けし、値が上がるとみた土地を多量に買う。鳩山御殿の土地も2,500円で買った物を3年後に6,000円で売った物。・1882年に結核になり吐血。墓場にするつもりで中山道鉄道の計画が発表された軽井沢の広大な原野を買う。米国でみた開拓地のようにしようと、ブドウや牧畜や麦作をやってみたが失敗。高冷地に強い落葉松を死後の人のために植林し始める。毎年30-40万本植えて、7百万本になった。これが今の軽井沢の森。・鉄の国産化が大事と見て、製鉄を研究。官営ではない製鉄所を興した。水道鉄管製造ではめられて牢獄に入る。・「鉄道は、天下の土地を無償で使うのだから、経費以外は無料にすべき」の持論の元に、甲武鉄道(JR中央線)、川越鉄道(西武国分寺線+新宿線)を敷設。その後、小田急、京急(標準軌)を敷設。熱海と小田原の間の人が押す軽便を皮切りに全国に軽便鉄道を展開。北海道炭鉱鉄道も。米国の石油機関車を参考に国産の機関車を開発。雨宮製作所に。東京市街電車も「全線均一3銭」という低料金を実現しようとした。・中央線の新宿-市ヶ谷間は、まっすぐ靖国通り(牛込の街と四谷の街の間)を通す筈だったが、外堀の権利を持つ軍が、青山練兵場(信濃町)を通すことを条件にしたので、今のように曲がった。・小田急は、スピードを出せる設計にして、都心と小田原を1時間で結びJRから客を取ろうと考えた。江ノ電の社長も引き受けることになった。・火力より運転費が安い水力。鉄道は水力の電気で動かすと、5万馬力の水力発電所も作った。・たくさんの人のアイデアを聞き、参考にすることが第一。アーキテクチャ上、必要な事業について、まず設計をし、見通しの元に、決断し、その後はものになるまで、やり続ける(元々必要なものだから必ずものになる)。決断後だけを見ると強引だが、それまでは誰よりも慎重にいろいろな人の意見を聞き回る。・いろいろな人にやらせてみる。うまく行ったとき(例えば軽便用国産機関車の開発に成功した時)は本当に嬉しい。洋行の時の感動と「天神様(菅原道真)のようになりたい」という夢、そして情報に基づき、アーキテクチャ(鉄道、製鉄、水道みな基盤です)を見ていく合理的な考え方が、彼のさまざまな方面の事業を切り拓いていったようです。「社会のためなのだから誰にでも教える」という彼は社会起業家の走りだったのかもしれません。彼の墓は、軽井沢の市村記念館の裏(軽井沢歴史民族資料館裏)の林の中にあるそうです。彼の名を冠した雨宮新田という地名は国道18 号バイパス南軽井沢信号付近に今も残っていますし、灌漑用の雨宮池は市村記念館の隣です。

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